第49回天文文化研究会(2023年1月17日、何でも報告会)

案内

最近、話題に上がることが多い「教育」について色々話ができればと思います。
これまで調べてきている諏訪天文同好会の発足にも理科教育の変遷が関わっている(と思われます)し、三澤勝衛の教育についても興味のある所です。
また、これまで調べてきたことや議論(雑談?)からは、先生たちの個人研究が市民科学を支えてきたといえるように思います。

そして、信濃教育博物館や諏訪教育会にも調べるとおもしろそうな資料がたくさんありそうなので、みんなで資料を調べていくのも楽しそうです。
渡辺さんがやっているように、「夏の大三角」がいつから扱われているかとか具体的な教育内容の変遷を追うのもおもしろいかもしれません。

自分たちでやるのも必要ですが、現役、または、退職された先生たちと一緒に何かできたらいいなと思います。
ただ、僕には良いアイデアがないので、そのあたりみんなでアイデア出ししたいです。

議事録

・最近の学校における探求学習について。
Google検索で調べるだけになっている。

・理科教科書の変遷について
信濃教育会の人と協力しながら、信濃博物館に行って調べてみる。
夏の大三角が教科書にいつどこ経由で入ったか。
使われ方も知りたい。
北斗七星は明治からあった。

天界には、「信州の全学年の理科に天文が入った。」との記載がある。
誰が天文を持ち込んだのか?
長野県で全国に先駆けて取り上げたものがいくつかある。
・メンデルの法則(大正6年3月)
・レントゲン
監修者は誰?

長野県は、教科書がない時代の学習帳は、地域性が強く見られた。
国立教科書図書館
学習帳だからと言って、地域性が見られるわけではない。

信州教育で、ミムラヤスジさんは活躍していた?
ミムラヤスジは矢沢米三郎の弟。

信濃教育会で、国語の教科書が作られていた時は、
ニシオミノルさん(初代国語研究所)監修だった。

なぜ、長野県で独自の教科書をつくりはじめたのか。

生活科は、今でも信濃教育会でつくっている。

昭和28年頃に教科書の検定制度が厳しくなった。
それまでは、各都道府県で教科書がつくられていたと思われる。

デジタル教科書をつくるのが信濃教育会では難しくなってしまった。

現代の教科書と学習帳はどう違う?
現代の学習帳はワークブックみたいなもの。

教科書が収蔵されている所
・高島小学校にはたくさんある。
みんなで調べてみよう。

県内各地に10個くらいの教育会がある。
その教育会ごとに会館があって、そこには何かしら資料がある。

下伊那会館には、学科ごとの研究室がある。

星図を比べてみる。
星座線のつなぎ方とか追いかけてみるとおもしろそう。

・夏の大三角について
Wikiによると、
夏の大三角という呼び名は、1950年代からイギリスの天文普及家サー・パトリック・ムーア (Sir Patrick Moore) が使うようになってから一般的にも知られるようになったものである。ただし、ムーアによって創案されたものではなく、オーストリアの天文学者オスヴァルト・トーマス (Oswald Thomas) によって1920年代に “Grosses Dreieck” (ドイツ語で「大きな三角形」の意)と記述されており、トーマスはまた1934年には “Sommerliches Dreieck” (ドイツ語で「夏の三角形」の意)と記述していた。

それ以前にも、オーストリアの天文学者ヨセフ・リットロウ (Joseph Johann von Littrow) は、1866年に出版した星図[2]の本文において 「よく目につく三角形」 と説明していた。また、3つの星を最初に繋いだのはドイツの天文学者ヨハン・ボーデで、1816年に出版した書物の中の星図においてであったとされる。ただしボーデは、星と星とをつないだものの、それに対してなんら名称は与えていなかった。

1776年にフランスの球儀製作者ジャン・フォルタン (Jean Nicolas Fortin)[3] がパリで出版した 『フラムスティード星図』 の第2版[4]では、3星のうちベガとアルタイルしか結ばれていない[5]。当時、デネブは「最も明るい一群の星」すなわち1等星にランクされていなかった。なお、『アルマゲスト』所収の「プトレマイオスの星表」では、アルタイルも2等星だった[6]。
らしい。

ちなみに、スーパームーンのはじまりはNASAの広報。
wether newsも大きな影響を与えているかも?
星ナビも?